代償と結果の法則ブログ

こんにちは。
報道された情報や、出版された本の内容をもとに、自分の考察を交え、未来予測や、提言を行うブログです。

日本の保守界きっての理論派 西部 邁氏 part 1


先日、以前に購入した、ある本を読んでいたら、日本の保守界きっての理論派と目される評論家の西部 邁氏は、「日本の真の自立、独立」という観点から、長年「反米保守」の立場で言論活動を行ってきた論客である。という文章と、上記の日本の著名な言論人30人をそれぞれ「右派」と「左派」に分類し、更に彼らが「理論派」寄りなのか「行動派」寄りなのかを、編集部が独断と偏見でマッピングしたものという図が掲載されていた。
それを見た時、思わず、ガッツポーズが出た。
実は、小生、今まで、様々な書籍やTV他の情報媒体を目にする中で、自らの思想信条に最も近く、また、この人の話をもっと聞きたいと熱望していた御人が「西部 邁氏」だったからである。
誰に言われるまでもなく、肌感覚で崇めてきた人を、一出版社の編集部が独断と偏見で記載しているとはいえ、自らの思いを後押しした事実は、「さもあらん!」という感慨をもたらした。
青春時代に、如何に生くべきかや、如何に考えるべきかと悩んでいた時に、氏の書籍を街灯の如く頼りとし、道案内して頂いたものである。


私が、流石!と唸る理由の一端を、以下記載したく思います。
別の書籍に、「小林よしのり」「福田和也」「佐伯啓思」「西部 邁」各氏が対談した書籍がございます。
どのような内容かと申しますと、
西部 邁氏曰く
[1998年夏に、小林君が「戦争論」という漫画本を出した。僕は早めに読んでいたが、それに批判が相次いでいたとは知らなかった。活字の分野では、なんとなく8対2の感じで強弱の差こそあれ、「戦争論」に批判的な論調があちらこちらにあるということを、遅ればせに知った。
結論だけ先に言えば、「戦争論」批判には、思想もしくは社会科学のレベルで見て、殆ど支離滅裂なものが多い。そういうことは、何も今に始まったことではないけれども、ただ知識人の端くれとして、こういうでたらめな小林批判をこのまま見逃して、沙汰止みとなるのは、後ろめたいような気がする。
「戦争論」が出て半年経ち、批判が出尽くしたところで、この際、そのことを踏まえて、「戦争」とか、「国家」「歴史」とか、「人間」などについて、少し深めたかたちで議論してみたい。
小林批判が如何にでたらめかということのシンボリックな例が、ごく最近出てきた。
それは、他でもない、大江健三郎というノーベル賞受賞文学者の言なのですが、これが小林批判全体のでたらめさ加減をよく表していると思う。
それは、読売新聞(1999年1月14日夕刊)の随筆で「公、おおやけ」と題して大江氏が書いているのですが、まずこう言う。「公(おおやけ)」という言葉は日常語ではあまり使われない言葉である。日常からずれている言葉である、と。それ自体、僕には愕然とする台詞です。僕は息子にも娘にも、「公私混同するな」とか「公の場で大きな欠伸をするな」とか、よく言ってきたし、僕自身が親父から、そういうことを言われてきているので、へえ、「公」というのは日常語になかったのか、この文学者の言語空間では、「公」というのは非日常語だったのかと、まずびっくりしたわけです。
第二にこう言うんですね。日常語からずれた言葉を使いたい時には、その意味内容を確かめるために、きちんと字引を引いてみるべきである、と。
そこで彼が引いた字引が「広辞苑」なんですけれどもね。
「広辞苑」は最近、第五版が出て、売れ行きが悪いようだから、ひょっとしたら大江健三郎は、売れ行きの悪い「広辞苑」の宣伝をやりたいのかなと思うぐらい、「広辞苑」、「広辞苑」と言いながら調べた結果、「公」には七通りの意味があって、その最後に、「公」の和語における語源は、「大宅(おおやけ)」、大きい家であるということに発して「金持」というのがあると言う。
つまり、日本語には「金持=権力者」というような意味がある。だから日本人は「公」をお上(かみ)意識で使っているのだ、と言うわけです。
僕もその言い分には、確かに一理あると思いますよ。
つまり日本語で「公」というのは上のほうから来るという意味でね。
それに対応する英語の「パブリック」というのは、もともと「ピープル」とか「ポピュラー」とかと親戚の言葉ですから、下のほうから来る。
それを指摘することは大事だと思う。
ところが、どんな字引を引いても、現代におけるその語の中心的な意味は、英語と日本語というのは殆ど同じなんですね。
「人前で公然と」とか、あるいは「私有ではなくて公有」とか、「心が偏っていなくて公正」とか、意味が英語と日本語で収斂しているんですね。
僕ならまずそういう風にして、上からと下からという風に出所が違っても、「公」という言葉においては、結局のところ歴史の中で英語と日本語の意味が収斂してくると考える。
そのことについて大江健三郎はこれっぽちも考えずに、「公」と「私」の違いだけを強調するわけです。]


(ここまでの私の感想)
大江氏の本意は、「公」という言葉を日本人は、お上意識で使っている。
つまり、「お上」が言うことだから、はいはい、天下御免の言葉ですよ。
絶対的に強制的に無条件的に従わないといけないというニュアンスが含まれていますよ。と、
その使い方、意識、体制等を、大江氏は嫌っているのではないか。
そして、もっと進んで考えれば、「公」というものの、従来の「公」という考え方は、もうなくなっても良いのではないか。もしくは、従来の「公」の意識や、考え方、体制を変化させた方が良い、その方が望ましいと考えているのではないだろうか。


ここまでの西部氏の主張は、
「公」という言葉の意味には、「お上意識」で使う、上から目線の使い方も確かにあるが、強制性や、絶対性という側面だけでなく、西洋においてのパブリックという言葉の発生の仕方(語源)を見てもわかるように、人々や、大衆という言葉の関連から、社会性や、倫理性、平等、公正といった意味も、含まれるというのは、文学者ならばわかるはずだ。それを、「広辞苑」の中だけの狭量な世界だけで判断し、その言葉の持つ語源や、歴史、内包されている意味(本質的な意味は、時代を超え、場所や地域を超えて、最終的には収斂されるため、同じような意味を持つようになる)を見ないというのは如何なものか。そして更に、進んで推測するならば、「公」を否定、あるいは排斥、弱小化させる、させたいという思考が透けて見えることに対して、日本社会における問題点のシンボリックな例として、警鐘を鳴らしているのではないか。