代償と結果の法則ブログ

こんにちは。
報道された情報や、出版された本の内容をもとに、自分の考察を交え、未来予測や、提言を行うブログです。

映画 「かもめ食堂」 を鑑賞した感想

映画「かもめ食堂」について。


まず、ウィキペディア の情報から。


『かもめ食堂』(かもめしょくどう)は、2006年3月公開の日本映画。小林聡美・片桐はいり・もたいまさこ主演。監督は『バーバー吉野』『恋は五・七・五!』『めがね』の荻上直子、原作者は群ようこ。キャッチコピーは「ハラゴシラエして歩くのだ」で、個性的な面々がフィンランドのヘルシンキを舞台に、ゆったりと交流を繰り広げていく様子を描く。第28回ヨコハマ映画祭(2007年)にて第5位を獲得した。最も将来性が期待できる監督に与えられる新藤兼人賞2006・銀賞を受賞(荻上直子)。


ウィキペディア に記載されている あらすじ
サチエ(演:小林聡美)はフィンランドの首都ヘルシンキにて、「かもめ食堂」という日本食の食堂を営んでいる。しかし、近所の人々からは小さい人のおかしな店と敬遠され、客は全く来ない。
そんな折、食堂にやってきた日本かぶれの青年・トンミからガッチャマンの歌の歌詞を質問され、思い出せず悶々としていたサチエは、町の書店で背の高い日本人女性・ミドリ(演:片桐はいり)を見かける。意を決して「ガッチャマンの歌詞を教えて下さい」と話しかけると、ミドリはすぐに全歌詞を書き上げた。旅をしようと世界地図の前で目をつぶり、指した所がフィンランドだったというミドリに縁を感じたサチエは、彼女を家に招き入れ、やがて食堂で働いてもらうことになる。
ミドリは食堂を繁盛させようと様々なアイデアを出すが、一方でサチエはかもめ食堂のメインはあくまで「おにぎり」であるというポリシーを持っており、譲らない。だが、ある日思い立ってシナモンロールを焼くと、いつも遠巻きに見ていた主婦たちがその匂いに釣られて来店し、その日を境に少しずつ客が入るようになる。
そんなある日、マサコ(演:もたいまさこ)という日本人旅行者がかもめ食堂を訪れる。マサコは介護していた両親が亡くなった後、ある時ふと目にしたテレビでフィンランドのエアギター選手権を知り、おおらかな国民性に惹かれてフィンランドまでやって来たのだった。空港で荷物を紛失して足止めを受けていたマサコは、荷物が見つかるまでの間、観光をしながらかもめ食堂へ度々来店し、そのうち食堂を手伝うようになる。




他のサイトにあった、あらすじ


原作は群ようこがこの映画のための書き下ろした。フィンランドのヘルシンキに開店した日本女性サチエが経営する「かもめ食堂」を舞台に物語は始まる。ゆったりとした空気で独特の世界観の映画です。


【起】- かもめ食堂のあらすじ1
夏のある日、ヘルシンキに「かもめ食堂」をオープンした、日本人女性サチエ。メインメニューは、サチエのこだわりのおにぎり。なかなか誰も食堂にやってこないにもかかわらず、「毎日まじめにやっていれば、いつかお客さんはやってくる」と思い、きちんとした規則正しい日々を送っていた


【承】- かもめ食堂のあらすじ2
ある日、ついにかもめ食堂に最初のお客さんがやってきた。日本オタクの青年トンミ。同じ日の夕方、カフェで、日本人女性のミドリと知り合う、サチエ。ミドリはかもめ食堂を手伝うようになる。トンミ、ミドリ、サチエの3人だけの日々が続いていたかもめ食堂にも、少しずつ、お客さんが来るようになってきた。又一人日本女性マサコがヘルシンキに降り立つ。彼女もやはりかもめ食堂にたどり着く。そして、性格も生い立ちも違う3人の女性が、かもめ食堂で働くこととなる。そしてかもめ食堂は段々人気が出始め、ゆったりと日々は過ぎていくのであった。


【転】- かもめ食堂のあらすじ3
ある時、いわくのありそうなフィンランド女性、リーサが食堂にやってきて、マサコと、お酒を飲みあう。酔いつぶれた後、彼女は自分の人生について語る。そして、日本には、魔術があるそうだねと、質問する。マサコ達は、それが、わら人形での呪いのことだと思い当たり、リーサに説明する。そしてある時、食堂に泥棒がやってくる。


【結】- かもめ食堂のあらすじ4
泥棒の正体は、なんとマッティだった。実は、以前同じ場所でカフェを開いていて、当時のコーヒーメーカーを取りにきたのだった。かもめ食堂は、徐々にお客さんが増えていき、サチエのこだわりのおにぎりも、注文が入るようになる。そして、ある日とうとう、サチエの夢であった「かもめ食堂」が満席になる日がやってくるのであった。




ここからが、映画「かもめ食堂」を観た、私の感想。


まず、「かもめ」とは、渡り鳥の代名詞であり、渡り鳥を、ウィキペディアで調べると、


渡り鳥(わたりどり)は食糧、環境、繁殖などの事情に応じて定期的に長い距離を移動(渡り)する鳥のこと。翻って、1年を通じて同一の地域やその周辺で繁殖も含めた生活を行う鳥を留鳥という。とある。


つまり、何らかの事情により、遠く故国を離れ、異国の地に渡って来た者を、かもめに見立てているような印象を受けた。
そして、かもめ食堂の、女主人 サチエは、開店後、1ヶ月しても 客が来ないにも関わらず、儲け主義に走らず、ミドリが進言する「日本人向けのガイドブックにお店の広告や情報を掲載したらどうですか?」という提案を退ける。
理由は、ガイドブックを観て、日本食を食べに来る日本人旅行者は、お酒を求めて来られたり、気取った店構えを期待する方が多いように、予想される。しかし、私の店のコンセプトは、ふらっと、ここにこんな店があったんだというような、ふっと立ち寄り易い、気軽なお店にしたいというものだった。
これは、つまり言い換えれば、例えば、ぬるま湯のような、白湯のような、素朴で、癒されるような空間を構築したいということだろうと思う。


この映画は、群 ようこ氏が、原作者で、書籍も出版されているようであるが、私は、今のところ読んでいない。故に、映画を観た上での話でしか、感想を述べられないが、
気になった、フレーズや、単語(キーワード)がある。


それは、
・毎日まじめにやっていれば、いつかお客さんはやって来る。という台詞や、(この台詞は、至極シンプルで、当り前のようでいて、実は、なかなか奥が深い言葉のように思う。
経営者は、御客様が来なければ、不安になるものである。そして、不安だから、あれこれと策を練り、それを実行しようとする。その策が当たるかどうか、不安な気持ちのまま、チャレンジするものだと思う。しかし、自分の信念を強く持ち、動じず、かつ怠けず、すべきことを粛々と実行しつつ、待つには、相当の胆力(心の強さ)が求められる。


次に、
・ガッチャマンの歌
映画の中で、「ガッチャマンの歌を全て歌える者に、悪い人はいない」という、全く根拠のない台詞が出て来るが、実は、私は、ガッチャマンの大ファンで、一語一句、間違わずに歌えるのであった。(余計なことだが)。
では、何故、原作者はここで、ガッチャマンの歌を持ちだしたのであろうか?
その理由は、サビの盛り上がりの部分、


命をかけて飛び出せば  科学忍法 火の鳥だ!
飛べ!飛べ飛べ ガッチャマン!  行け!行け行け ガッチャマン!
地球は一つ。地球は一つ。 おお!  ガッチャマン ガッチャマン~  


にあると 私は考える。


「命をかけて飛び出せば」なんて、なんて素敵な歌詞でしょう(笑)」
では、誰のために、命をかけて、飛び出しているのでしょう?
自分自身のために、命を懸けているのなら、それは当り前の行為であるし、歌にもならないでしょう。すると、他人のために、命をかけて、飛び出していることになります。
では、敵は誰? 地球が一つになることを妨げる人物?もしくは組織?
なんて、想像、妄想が膨らんでいきますが・・。



飛べ!という歌詞も、科学忍者隊 ガッチャマンが 飛べるからなのであるが、
私には、事情があって異国へ渡ってきた者(かもめ)に対し、飛べ!と、鼓舞しているように聞こえるし、行け!というのも、エネルギーを後押ししているように、聞こえる。



そして、究めつけのセリフ。「地球は一つ」。「地球は一つ」。
2回、繰り返しています。強調されていますね(笑)

当初、かもめ食堂は、近所の人達から、小さな人のおかしな お店と敬遠されていた。
しかし、毎日、真面目にテーブルを拭く姿を見たり、おいしそうなシナモンロールの匂いを嗅いでいくうちに、店内へ入ってみようと人々は思いだす。
これも、人それぞれ、好みはあるにせよ、おいしそうな匂いは、大概の人がおいしそうに感じるものであるし、フィンランド語のわからないマサコが、リーサの過去の話を聞くが、これも、マサコがフィンランド語を知っているかの如く、話の内容を理解する。
これも、詳細はわからなくとも、本質の部分は、表情や声のトーンや速さや、雰囲気もろもろで、伝わるものであると、描写する。


先ほど、ガッチャマンの歌を全て歌える者に、悪い人はいないという台詞に根拠はない
と、私は申し上げたが、もしかすると、原作者は、全て歌えるということは、地球は一つという歌詞を知っているから、当然、そういう考え方や、感じ方も、少しは頭や心の中にあるだろうという意味で、この台詞を使ったのかも知れない。


外国人だから・・。とか、体が大きいからだとか、肌の色とか、性別だとか、人種だとかそんな諸々の区別や線引きは、(人が喜んだり、悲しんだり、笑ったり、泣いたりするのに、)関係なく、万人に共通の自然な感情であり(共通というのは、心地良いと思うことは、誰にとっても心地良いし、その逆もしかり)、その証明が、ラストに、かもめ食堂が満席になることで表されているように思う。
満席というのは、つまり全員が常連であり、リピーターということである。
私には、「心地良い場所には、誰もがリピーターになる」ということが、この映画が一番伝えたいことだったんじゃないかと思われる。



また、サチエは、どこに居たって、悲しいものは、悲しいし、寂しいものは、寂しい。という台詞を吐く。
また、マッティという人物を通して、「コーヒーは、自分で淹れるより、人に淹れてもらう方が、美味しいんだ」と表現させる。
これは、つまり、人との繋がり、人との触れ合いが、心を癒し、安心させ、楽しくさせることを示している。
人は、人によって傷付くが、その傷を癒す、治すことが出来るのも、また人との触れ合いによってである。と言っているようである。


食堂の主人、サチエは、幼い頃から、合気道に親しむ。合気道とは、周囲の空気と、己の呼吸とを合わせることから、「合気道」と呼ぶのよ。という台詞がある。


自らと他者とは、物理的には、隔てている。しかし、相手との距離感、空気感、それを一体化したり、同化したりするように、努力してみると、相手の考えや、心中が見えてくるのかも知れない。


おにぎり も、この映画の中で、大切なワードである。


そのおにぎりを、フィンランド人に説明するのに、ジャパニーズ・ソウル・フードと説明している。


私は、このおにぎりの件から、「おにぎり」自体を伝えたいんじゃなくて、日本のソウルフード。つまり、〇〇人とかは、関係ないけど、日本人としての、魂や、精神や誇りを大切にしつつ、(自らの誇りを大切にするということは、他者の誇りも尊重するという事)
地球人として、協力していく提案をメッセージとして含有している気がする。


私は、昔、ヨーロッパの日本食レストランで働いていたことがあり、そこで、「おにぎり」を作るように と料理長から指示を受けたことを思い出します。
その時に、言われたことは、お客様が、食べやすく、美味しいと思える「おにぎり」を作るように。塩加減、米の量、握る硬さ、具の量と位置。どこを齧っても、具が食べられるように等。全てがお客様のためを想った、心尽くしの日本の伝統料理。


日本食のことを、「和食」と呼びます。「和」とは、なごみ。つまり、「癒し」。
「中和」や、「平和」にも、「和」の字を使います。
「地球が一つ」になるために、「和」つまり、日本の心。日本人の精神が必要なのではないか。


サチエは、映画の中で、ガッチャマンの歌詞を教えて貰った代わりに、ミドリを家に泊めます。(10年前、インターネットはまだ、流行ってなかったのかな?という疑問はありますが)これは、本当は、泊まるホテルもまだ決めていないミドリとの会話の中で、世界地図を指さした先がフィンランドで、たまたまフィンランドに来た。それも一人で。
これは、フィンランドに来たかったのではなく、逆に、日本から離れたかったということ(離れられるなら、どこでもよかったということ)を意味していると、サチエは感じたのではないでしょうか。そんな思いで、フィンランドに来たミドリを独りでホテルで寝かせることに、瞬時に、躊躇いを感じたために、自宅への、お泊りを提案したのではないか。
ここに、私は、サチエの優しさを感じます。


暫くしてミドリは、もし私が、日本へ帰るなどして、サチエが一人になったら寂しいか?と サチエに質問します。
するとサチエは、元々、独りで店を開店して、やってきたし、ミドリさんの人生だから、行く先(将来)は、ミドリさんが、決めること。というような返事をします。
そこには、寂しいから、居てほしい。や、寂しくない などの表現はありません。


この描写は、人には優しくするが、相手の意思を尊重し、自らの甘えや、依存心を排除しようとする姿が伺えます。


そのくせ、もし明日が地球最後の日なら、美味しいものを食べて過ごしたい。
そして、その美味しいものを食べる会に、ミドリも参加することをサチエは、歓迎し、排除しようとしません。(話しの上だけの仮の話ですが)、地球最後の日に一緒にミドリと過ごすことを、サチエは容認するのです。
見落としがちですが、これは、私は、スゴイ事だと思います。
つまり、地球最後の日に、人生最後の日に、美味しいものを食べる会に同席するというのは、これは、「家族並み」の親密さです。
つまり、先ほどに遡りますが、一方では、家族並みに親しさを示しつつ、(つまり、いなくなったら、寂しいに違いないのに)、相手の人生や意思を尊重するため、寂しいとは言わない、自己犠牲の精神が、ここに、隠されていると思います。


また、日本への帰国を決めたマサコでしたが、知らない老人から、猫を譲り受けたため、フィンランドに残留するのも、天の啓示のようですし、やっと、出て来たトランクに、花が敷き詰められていたのは、中身は、頂戴しますが、代わりに、花を敷き詰めておくので、これで許して下さいと、中身を取った犯人が言っているようでもあり。
いや、もしかしたら、マサコ自身が待ち望んでいたのは、トランクの中身ではなく、花のように、人を勇気づけたり、励ましたり、時には癒したり、笑顔にしたりする、行為や生き方だったのかも知れません。


あっさりとした、爽やかなレモンのような脚本でしたが、随所に「優しさ」が散りばめられた映画だったと思います。