代償と結果の法則ブログ

こんにちは。
報道された情報や、出版された本の内容をもとに、自分の考察を交え、未来予測や、提言を行うブログです。

映画 「エルサレム」 国際感覚と宗教観の踏み絵 

先日、この「エルサレム」という映画をケーブルTVで観ました。
正直、衝撃を受けましたし、考える点がいくつかあると思いました。




しかし、上記のようなサイトの評価をネットで少し見ると、残念ながら必ずしも良い評価が与えられていないので、みんな、見方は色々なんだなと思いました。
傲慢な言い方をすれば、この映画を観て、ただのB級ホラー映画だという感想の方は、(当然、個人の感想なので、どう思おうと自由なのだが、)私は、国際感覚が鈍いのではないかと思う。それは、現在、米国大使館がイスラエルのテルアビブにあるのを、エルサレムに持ってくる問題に関して、アラブ社会や、イスラム勢力が問題視するほど、この地域には不可侵のルールが存在し、かつ、厳かな宗教世界の日常が流れているのである。

「宗教」とは、人智を超える概念であり、如何に生きるか、どう生活するかを追求する道徳規範そのもの。よって、またルールがあり、そのルールから外れると、恐ろしい未来や結末が待っているという形で構成される代物である。
故に、映画に出てくる悪魔や怪物、巨人等は、ある意味で自然であり、必然ともいえる。
仮に、無宗教の方がいても、私は、自由だと思うし、尊重しますが、少なくとも、エルサレムに住む方々が信仰する、それぞれの宗教に対して、尊重する気持ちを持っていれば、単なるB級ホラーだとは、言い切れないのではないかと感じる。
それは、映画の出来や、技術などの話ではなく、そのタイトルと、主たるメッセージを受け止めれば、自ずと、この映画の評価を低く置けないはずと考えたので、このブログのタイトルを、上記、映画「エルサレム」は、観る者の国際感覚と、宗教観が試される踏み絵のようなものだ。としたのである。


私がこの映画を観た感想は、大きく分けて、2つある。
それは、本編に出てくる「スマートグラス」についての話と、不可知世界や、未知なる世界の話についてである。

先に「不可知世界」の話からしたく思います。


私は数年前に、イスラエルのエルサレムに、ある研修旅行で訪れたが、かの地は、「聖地」と呼ばれるだけあって、普通の場所ではない。
ご存知のように、世界の大宗教の聖地が隣合わせで、並立している。
例えば、日本の神道や仏教の聖地と言えば、どこだろうか。
伊勢神宮・出雲大社・熱田神宮・宇佐神宮・高野山・比叡山延暦寺・東大寺・善光寺等だろうか。それらの「聖地」が一ヵ所に集まっていると想像してみると、どうだろうか。
当然、普通の感覚の者ならば、恐れ多い場所と認識し、他の一般の場所とは一線を画す対応と心構えを持つだろう。
そして、その土地の歴史と、人々の深き思いを推察するに、その地では何が起こっても不思議ではないとさえ、思うに至る。


映画では、ある預言者が、「贖罪の日を前に、街から出るように」と警告する。そんな時、自分ならどうするか。相手の発言の信憑性を量ることは、とても難しい。その場合、こちら側が、どうしても、移動できない事情がある場合を除き、一定期間、空振りを覚悟の上で、警告に従うべきであると思う。
これは、リスクマネージメントの問題で、「危機の空振りの確率×損失」と、「実際に危機が起こった場合の確率×損失」を比較検討したら、後者の方が生命に関わるため、前者を選択する方が賢明であると考える。


また、昔の中国の街作りや、京都の街作り、そして江戸の街作りには、最初に中心を沿えてから、鬼門(北東)、裏鬼門(南西)に鎮守の神社を置く。
これは、「お祓い」の意味もあろう。つまり、人々が崇め、敬い頼りにする人智を超えた存在の場所は、裏を返せば、その聖なる力を必要とするほどの邪な力がそこにやって来るということに他ならない。
その意味で言うと、キリスト聖墳墓教会や、嘆きの壁、モスクなどがあるエルサレムの地は、やはり、両方の意味で特別な場所だということが、言えるだろう。


さて、この映画のメッセージは?


この映画のメッセージは、まずは、映画のタイトルにあるように、もっと「エルサレム」に注目しよう!という意味が込められているように思う。
「エルサレム」の地は、過去、幾多の争いがあったが、現在は、「聖地」ということもあり、思想的な宗教対立はあるものの、力の実力行使の対立は起きていない。
また、映画では、ある女性が死亡し、その後復活して、生き返るが、以前の彼女ではなく、攻撃性を持った悪魔的な女性に変貌した描写がある。
その際、エルサレムの各宗教指導者たちは、普段のお互いの宗教対立は、脇におき、当面の解決すべき目的である、この女性の「悪魔からの救出」に力を尽くす。
しかし、女性は回復することなく、悪化し、背中に黒い翼が生え、人々を襲おうとした為、やむなくその女性を殺害する。
映画の終盤になると、怪物や巨人から、なんとか逃れた主人公自身が、悪魔に変貌し、先の女性のように、背中に黒い翼を生やし、空中に浮かび上がる。
そして、遠い先の空を見ると、自分と同じように、空中に浮かび上がった悪魔の群れが大量に飛んでいるのが目に入る。
そして、映画は終わる。


「私たちの光明は?」
映画の中で、嘆きの壁に、挿入する紙に書く「願い」に、主人公の女性は、数年前に亡くなった兄に会いたい。と書く。
すると、その後、洞窟の中で、悪魔に襲われている中、1ぴきの別の悪魔が、逃げ道を指し示してくれる。
それを「スマートグラス」で、facebook の顔認識に掛けると、死んだ兄という検索結果が出る。


つまり、「嘆きの壁」に「願い」を念じたから、実現したという流れである。
であれば、真摯に、不幸にならないよう、神聖なものに「お願い」をすることが、「光明への道」といえるか。
しかし、お願いをすれば叶うかわりに、「対価」を払う必要がある。
その宗教の「掟」や、教義に従うということである。


物事には、予兆、兆候、サイン(警告)がある。映画では、贖罪の日は審判の日とも、呼ばれていた。日常の正しい生活から(各々の宗教の決めごとから)はみ出した者が、審判の日に断罪される(ようだ)。


しかし、各宗教によって、それぞれ教義なり、生活様式も違うのだから、その差異をもって、審判の日に断罪されるのは、釈然としない。
どの宗教を選んだら、助かる。助からないという話しになってしまうからだ。


ただ、よく言われることだが、各宗教は、細部は微妙に違うが、どの宗教も、大元は、共通する内容である。と言われる。


昔は、宗教規範(道徳規範)がそのまま法規範になっていた。王政や、封建制で表立った階級社会であり、民主主義も当然無く、基本的人権もなかった時代。しかし、時が移ろい、宗教と法律は別になり、(マグナ=カルタや、権利の章典が生まれ)、その後、法規範の方が厳格になり、意識されるようになった。
今や道徳規範は、まっいいか。というような甘えにさらされる存在になったと思う。
よほど、厳格な宗教グループに属していない限り、道徳規範を逸脱したとしても、それが、法規範内であれば、他者から強く糾弾されることは少ないと思われる。


してはいけない法規範を守るのは、当たり前として、では、それよりも大きな範囲を持つ「道徳規範」を守れば、「幸せへの道」が開かれるのか。
それを証明するのは難しいけれど、たくさんの人々が、日々、それを信じて信心したり、行動規範にそえていたりしている。


この映画は、最後のシーンで、審判の日を迎えると、悪魔が大量に発生し、浮揚し、なす術がないお手上げの状態で、終わりを迎えているが、これは、映画的なテクニックで、「こうは、なりたくない」という気持ちを起こさせるための終わり方のような気がする。


では、人々は、どうすれば良いのか。
現在の「エルサレム」の現状のように、意見や、思想や、信教の対立や問題があっても、それぞれの土地と、住民を尊重し、「ルールを守り」、現状維持(平和の維持)を図る。


「エルサレム」でも出来ているのだから、他の場所でも同じような対応が出来るはず。
というのが、私なりの解釈(この映画の真のメッセージ)である。


なぜなら、普通、この映画を観ると、エルサレムの街並みや歴史に関心を覚えたりして、「エリサレム」に興味が湧くはず。そして、興味を持って、現実のエルサレムを知れば、これだけ、紛争が起こりやすい場所なのに、何故今は、争いが起きていないのかと、疑問に思うはず。と同時に、それなら、世界一、争いやすい場所が平和なのに、何故他の場所で紛争が起きているのだ?という疑問にも行き着くはずと考えたためです。


勿論、紛争の原因は、権力者の利権や、武器商人の思惑、エネルギーの争奪等、色々あるのでしょうが、「エルサレムでは、紛争は避けられているという事実」に着目すると、他の地域の処方箋が少し見えてくる気がします。




もう1つの映画の感想である、「スマートグラス」の話をしたく思いますが、
こちらは、次のブログで 書かせて頂きます。