代償と結果の法則ブログ

こんにちは。
報道された情報や、出版された本の内容をもとに、自分の考察を交え、未来予測や、提言を行うブログです。

西部 邁氏 曰く「右翼と左翼」の本質とは・・。part 1

・[右翼に「アホ」、左翼には「バカ」と私が言いたくなる理由]
というタイトルで、ある出版社が、西部氏にインタビューした。
タイトルだけで、嫌悪感を示さないで頂きたい。
右翼・左翼それぞれの思考回路を熟知した氏が人情を携えて歴史的観点から考察していきます。
東大在学中には新左翼運動とも関わり、後に保守言論界の重鎮となった西部邁氏が、「右翼と左翼」なるものの本質に迫る。
左右それぞれの思想、及び人物におけるプロス&コンズ(賛否両論)はいかなるところにあるのか-。


以下 本文。
左右に傾くのは「バカになる早道
私が好きな評論家に、ホセ・オルテガという人がいます。
彼は1930年に「大衆の反逆」という著書を出しています。
このタイトルから、良き人民が、悪しき権力者に対抗するようなイメージを持たれがちですが、内容は全く違います。
大衆と訳されてはいるが、英語で言うとmass man 、つまり、「大量の人」という意味になります。
かいつまんで言うと、この著書でオルテガは「大量の人々が、己らの社会を統治する能力も気力も無いくせに、権力を欲して、既存の権力を破壊し、そして混沌の極みになった時に、この世を治めてくれる人材はいないのかと嘆いてみせる」と述べている訳です。
「反逆」の意味は、己の無能力に反逆し、さも能力があるように見せかける。
そういう時代が始まったのが、1930年代だということです。
本には、こうも書いてある。
「人が左翼であることは、人が右翼であるのと同じように、人がバカになる早道である」
私が、これを読んだのは、二十代の後半だったと思うが、えらく納得しました。
また、カール・ヤスパースという哲学者がこう言っているのも読みました。
「人は屋根の上に立つ存在である。」
この場合の屋根というのは、稜線のこと。私流に言えば、山岳の尾根。
ちょっと右に滑ったら、転げ落ちる。ちょっと左に滑っても、転げ落ちる。
歴史を振り返れば、これまで人間は、屋根の上で左に転がったり、右に転がったり、立ちすくんで動けなくなったり、成功したりしてきたということでしょう。
そして、屋根の上のきわどい細い道を、平衡感覚を持ってなんとか渡り切ろうとする。
人はそういう存在なのだということです。
その屋根の上を渡り切るためには、「伝統」というものが必要になってくる。
屋根の上は、綱渡りのようなもので、ずっと下を向いていると転落してしまう。
視野を広くしながら目標を見て、前を向いて歩いていく。
前を見るというのは、理想は捨てないということでもあります。
足下(現実・目先)ばかり見ていては、極めて危ない。
そして、前を見て一本の綱渡り、一本の尾根道を進む時、平行棒のようなものが必要になります。それは科学からではなく歴史、つまり「伝統」から出てくるはずの歴史のウィズダム(知恵)です。
それを大事にしようというのが、ヨーロッパで言うところのコンサバティヴ、つまり「保守」であって、そこからズレてしまったのが、右であり、左であるということです。
バランスを失ってしまっては、右へ行こうが左へ行こうが、オルテガが言うところの「バカになる早道」に入り込んでしまうということです。



右翼の方が付き合い易い理由
まあ、そうは言っても、誰もがいつも尾根道を歩くような、不安定なやばい生活を送っている訳ではない。
私に対して、「お前、右と左のどちらに傾いているのか」と聞かれれば、率直にこう答えます。
「5.1対4.9 時には 6対4 ぐらいの割合で、右翼人士と会っている方が、左翼人士と会っているよりも、気が楽だ」
右翼は必ずしも「伝統」ではないのだけど、「慣習」を重んじるところがある。
分り易く言えば、天皇制でも良いし、靖国神社参拝でも良いのだけど、そうした慣習を大事にするところがある。
ただ私は、慣習そのものを大事にするのが、重要だとは思っていません。
必ずしも天皇制そのものや、靖国神社そのものが大事という意味ではない。
しかし、先ほど言った平衡感覚が、慣習の中に内蔵されている可能性が高いのです。


(記載者の感想)
慣習を行う中で、平衡感覚を育んでいるのではないか。あるいは、知らず知らずの内に、ある慣習を行う中で、その慣習を行っている者と、していない者との違いに気づき、そこから立ち位置や、何故、その慣習を行っているのかを考える中で、如何にあるべきかを自問自答することが、まさに、平衡感覚を研ぐという行為なのではないか。


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ここは難しいところなのだけど、慣習には、良い慣習と悪い慣習がある訳です。
慣習そのものを大事だと、私のような保守は考えない訳です。
なぜなら、「悪習」があるからです。
良き慣習と、悪しき慣習を区別する基準、それもまた、伝統の中に含まれているはずだと考える。その基準を探しつつ、また、今ここという新しい状況の中に、それを如何に生かすかという決断をすることになる。
そして、成功も失敗もある。
とりあえず、新しいプランやアイディアに飛びつくのではなく、まず慣習の中に大事なものがある・・・と了解しているだけでも、右翼の方が話をしやすい。
だから、私はどちらかと言えば右翼に好意的なんです。


(記載者の感想)
西部先生ほどの知の巨人でさえも、模索しつつ、歩まれているだという思いを持ちました。現実的な問題に直面した時は、突飛な案をいきなり行うのではなく、過去に同様の事例がないかを探し、その成功例を(成功した条件や理由を)分析し、今回の件に生かすべく手を打った方が、成功確率が上がる。ということも、「伝統」や、「慣習」が示してくれていると仰っているように受けました。


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一方、左翼の方は、慣習そのものを全て古きものとして、壊してしまっていい・・・というところに傾いてしまう。
「人間の知性も感性も進歩するはずで、新しきものの中にこそ進歩があるから、古きものは壊して良い」という言い方や、やり方が多い。
だから、私は左翼と会うのはちょっと疲れるんです。
勿論、裏を返せば、私は右翼のことも最大6割程度にしか好意的でないとも言えます。
厄介なのは、古いものがいつまでも続いたためしがないという現実です。
人間の頭の中には、新しきものを作り出してしまう潜在能力がある。
また、欲望もある。
これを全否定するかのように、「古いものばかりを繰り返していれば良い」となってしまうと、人間を見誤ってしまう。
新しいものというのは、情報の新しい組み合わせなのです。
人間の脳は、過去の情報の新しい組み合わせを必ず作ってしまう。
新しいものが生まれるのは必然で、人間の精神の宿命です。


(記載者の感想)
なるほど、人間は進歩の歴史を歩んできた。たしかに、確率的には、古い慣習の中から、成功体験を呼び起こし、それを踏まえて対応する方が、成功確率は高いが、従来のやり方では越えられない壁に直面することもある。
そのたびに、人間は、新しいものや、新しいやり方を生み出して、乗り越えて来た。
盾と矛や、攻撃と防御があるように、人類としても、国内でも、1人の人間の中にも、保守の精神と革新の精神を併せ持つことが、
ヤスパースの言う、「人は屋根の上に立つ存在である。」という名言を至言に至らせるありようなのかと思う次第である。