代償と結果の法則ブログ

こんにちは。
報道された情報や、出版された本の内容をもとに、自分の考察を交え、未来予測や、提言を行うブログです。

日本の保守界きっての理論派 西部 邁氏 part 2

西部氏曰く
[大江健三郎氏は本当に困った人だ。彼は「週刊朝日(1999年1月8日号)の井上ひさし氏との対談でこういうことを言っているんですよ。「権利」といい、「公」といい、すべて「私」から出発すべきである、と。
同じことを、大江さんだけではなくて、加藤典洋氏なんかも言っている。
それなら、僕は大江氏などに言いたい。ついでに「私(わたくし)」という言葉を字引で調べてもらいたい、と。
ここにある字引は「広辞苑」ではないですが(笑)、「私」の意味はこうなっています。
まず、「内密に、密か事」。その次には「自分の利益のために法律を犯すこと」。
三番目か四番目ぐらいの意味で「私商(わたくしあきな)い」とか書いてある。
おおむね、そういう意味なわけです。
大江健三郎氏といい、加藤典洋氏といい、福田和也という文学者の前では言いづらいけれども、言葉に敏感なはずの文学者が、そういう風にして字引にすら「公」に対比さるべきものとしての「私」となっていて、それについての意味内容は今、言ったようなもので、とてもそこから出発して「公」に辿りつけるような切っ掛けの一欠片も無いわけですね。]


(ここまでの私の感想)
西部氏の本意は、「私」を字引で引くと、上記のような意味が出てくる。
内容的に、とても小さくて、暗く、隠すべきもののような感じさえ与える存在だ。
そのような意味を持つ、「私」という言葉なのに、その対極にある「公」にとって代わるあるいは、発生の元を、いやしくも「私」から、出発すべきであるなどというのは、言語道断であり、それは、言葉だけの問題ではなく、「権利」や、「公」というものが、「私」から出発するとなると、世の中が乱れると考えるのである。
つまり、そもそも、「私」とは、本能的にわがままな存在だと考える。
つまり、「私」から「権利」が発生すると、誰が抑止するのか。

「公」というものは、公益のために、「私」のわがままを制御するため、若しくは、正当な私権があったとしても、公益のために「公権利」を行使する存在であり、そういう位置付けなのである。



西部氏曰く、
[そこで、僕のように、社会科学とか社会哲学をやってきた身として、どうしても気になるのは「公」が何であるかということで、これを徹底的に議論しなければならないということです。ともかく、「公」のことがこれほどにないがしろにされているというのは、思想的な大惨事です。
一例を挙げると、精神科医の香山リカさんが、考えるのは「公」ではなくて「個」である、という言い方をする。
「個」から出発しなければいけないということを強調する。
戦争について、或いは今後のあるべき国の姿について考えることは大事だけれども、考えるのは「公」ではなくて「個」である、というかたちで「個」に戻ろうとする。
加藤典洋氏も同じく、「群像」の公共性についての評論を読んでみたところ、やはり自分も「私」から「公」を導きたいということを主張している。
それから、私の小学校の時の知り合いの、鷲田小弥太の北海道新聞に載った文章を読んでみたら、やはり「個」のために「公」がある、と言う。
だから、みんなこぞって同じことを言っているわけです。
僕は、こういうのを読んで、やはり愕然とする。
これは社会科学・社会哲学の責任かも知れないけれども、「公」や「個」に関する概念整理が全然できていない。僕ならこう言いたい。
考えるものは誰か、あるいは社会を形成する拠り所は何かとなったら、ひとまずは、「吾(われ)思う、故に吾あり」の「吾」、つまり「自分」という人間です。
ただ、その自分の中に「公共心」の一かけらや、二かけらが無い訳ではないし、自分の中に「私利私欲」も大いにある、ということにすぐ気づく訳です。
小林君の「戦争論」に戻って言えば、小林君があの中で何度も言及しているのは「公共心」についてです。
公共心が「自分」の中にある訳です。それをどうしてこんな風にして、考えるのは「公」ではなくて「個」だとか、「私」から出発して「公」を導きたいとか、大江健三郎のように、すべての拠り所は「私」であって「公」ではないという風に言うのか。
多分、そこにはほとんど小学生級の言葉の混乱がある。
彼らは「公」というものを、こう考えている。
例えば公共的施設とか、公共的機関とか、ある種の自分の外部にある公民館とか国会とか、或いは軍隊組織とか、そういうものを「公」と呼んでいるのだと思う。
従って、「公」については考えないとか、「公」から「私」は導けないとか、そういう風な言い方をするんでしょう。
プリミティブ(原始的な、幼稚な)概念の混同なんですけれども、「私」は紛れもなく存在する実体であって、それに対して「公」というのは、自分では深くは実感できないものとして、自分の外部にある政府組織であったり、軍隊組織であったり、公共組織であったりする、という風にしか「公」というものをおさえていないから、こういう様々な小林批判が出て来ると思うのです。
僕の結論はこうです。
もうちょっと素朴に「自分」を振り返ってごらんなさい。
そうすれば、自分の中にも「公性」と「私性」という両面があるし、ついでに言っておくと、自分の中に、他の誰でもない自分という「個人性」があるし、好むと好まざるとに関わらず、他の多くの人々と共有している性格としての「集団性」がある。
つまり、「公」と「私」、「集」と「個」、そういう風な四元的な性格を持ったものとして「自分」がいるのだ、と知るべきです。
もっと言うと、そういう自分達がたくさんいて、そういう者達の様々な交流の中から、政府組織その他の実体としての公共機関が出てくる。
こういうごく当たり前のことを確認しないと、この馬鹿げた「戦争論」批判というのは収まらないだろう。
僕が重要と思う論点はそういうことです。]


(私の感想)
私事ですが、例えば、「納税」。納税は当然ながら、国民の義務ですが、富豪でないならば、「節税」したいなぁと思うのは、人情、世の常ではないでしょうか。
そこで私は、合法的に節税する方法はないかと、税理士に相談しました。
一方、日本国民として、少しでもたくさん納税をして、日本国に貢献・寄与したいという気持ちも心の一部分に存在します。
それが、西部先生が仰る、「公性」と「私性」の共存の一例かと思慮します。
ただ、先生が仰る、「公」「私」「集」「個」の四元的な性格を持ったものとして、「自分」がいるということは、理解できますが、実生活の行動として、「公」のためや、「集団」のために、己の身や、力を挺身(率先して身を投げ出し、困難な物事にあたること)
することを美しいと思う故、四元的とは言っても、上下、もしくは、優先の差異は存在するのだろうと思います。